このところ、言葉を正しく使うということに意識が向いています。
言葉は潜在意識に対する指示だからです。
今日、駅のホームで友人の言葉を思い出していました。
「人混みに耐えられない」
聞いたときになんだか違和感がありました。
辛そうな表情も気にかかりましたが、言葉そのものの持つ力に圧倒されました。
そう言ってしまうと、自分は無力な立場になります。
人混みという影響を受ける被害者です。
そして一番悲しいことは「他の人たちVS自分」というへだたりを、いつの間にか作ってしまうことです。
以前のわたしも「人混みは嫌いよ」と公言してはばかりませんでした。
でも幸いなことにあるとき気がついたのです。
人混みの中にいるとき、わたしも人混みの構成要因だと。
向こうから歩いてくるあの人にとっては「わたしも人混み」
そう、あの人も、この人も、わたしとすれ違っている人はみんそう感じているはずです。
その時から街中を歩いても、あまり疲れなくなりました。
そして今日、駅のホームで「こう言ったらどうか?」と思い浮かんだのです。
「人混みに耐える自分ではない」
この表現はもっと無力に感じますか?
それとも自分軸であることで力を取り戻すでしょうか?
人混みに対してどういう反応をするのかは、本当は自分で選べます。
絶対的事実ではないのです。
もしわたしの家族や友人が歌手で、そのコンサート会場に向かう道が
大勢のファンで埋め尽くされていたとしたら
わたしは人垣を掻き分け、大いに喜びながら歩くでしょう。
人混みが悪いわけではない。
人混みの中にいて、それを耐えようとするのは自分のあり方ではない。
外の世界を批判的に表現するか、内なる世界として好きなあり方を表現するか
この違いは大きいのでは?と今日感じたのです。
みなさんはどう思いますか?
神代植物公園にて↑ 秋色がいっぱいでした
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